| ● | 美福門院とは平安時代末期の皇后で、藤原得子(ふじわらのなりこ)のことで、永久5年(1117年)~ 永暦元年(1160年)は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃として、近衛天皇の生母でもあります。両帝崩御の後仏門に入り、「紺紙金泥一切経」(国重文)を完成させ、これを納めるための六角経蔵(荒川経蔵)を造営し、その維持費として紀州荒川(現在の桃山町付近)の庄を寄進しました。 「美福門院修禅尼寺縁起」では、美福門院は両帝の菩提を弔うため、持領であった荒川荘の尼ヶ丘に入り尼岡御所を建立し、2年間の在住の後この地でなくなったとのこと。一般的には門院は京都で亡くなったとされています。遺言により遺骨は高野山菩提心院に納められています。
 この荒川の荘が美福門院と深い関わりがあることは事実ですが、ここで亡くなったことは俗説でしょうか?クスノキは幹周からして、門院の墓が造られた頃にはなかったと思われます。株立ちのクスノキですが立派なクスノキの巨樹です。近くには「三船神社古宮のケヤキ・ムクノキ」があります。
 美福門院の広大な所領地(荘園)は娘の八条院に受け継がれます。八条院は全国に230カ所にも及ぶ広大な荘園を領することとなり、日本の中世の歴史に大きな影響を与えます。ちなみに足利氏は八条院領足利荘の預所でした。
 (HP管理者)
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